松山城は山の上、今治城は海のそば。なぜ同じ愛媛の城なのにこんなに違う?

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松山城
松山城の城内と、その下に広がる市街地。
松山城から見た城内と市街地。町を見渡せる。
今治城
今治城から見渡す堀、市街地と海。
今治城から見た堀と町、その先に広がる海。

愛媛県にある松山城と今治城。

どちらも関ヶ原の戦いの後に築かれた城だけど、実際に訪れてみると、ずいぶん違いがあったんだ。

松山城は、標高132メートルの勝山に築かれた城。

山を登るのはなかなか大変だったけど、高いところから街を見渡せるのが印象的だったんだ。

一方、今治城は海に近い平地にある城。松山城とは違い、山を登る必要はなく、城を囲む大きな堀が特徴的だったよ。

松山城では「こんな高いところにあるなら、攻めるのも大変そうだな」と思ったんだ。

そこで、「平地にある今治城はどうやって守っていたんだろう?」って気になったんだ。

そして、もう一つ気になった。

そもそも、なぜ二つの城はこんなに違う場所に築かれたんだろう?

調べてみると、そこには城を守る工夫だけでなく、町づくりや海上交通も関わっていたんだ。

松山城と今治城、場所が違うのには理由があった

実は、松山城も今治城も、1602年に築城が始まっている。

松山城を築き始めたのは加藤嘉明(かとうよしあき)、今治城を築き始めたのは藤堂高虎(とうどうたかとら)。

二人とも関ヶ原の戦いの後に領地が増え、新しい城を築くことになったんだ。

でも、選んだ場所は大きく違っていた。

松山城は、山の高さを利用しながら、周りに大きな城下町をつくれる場所。

今治城は、海に近く、船を使った交通にも便利な場所。

こうした土地の特徴が、それぞれの城づくりに関係していたと考えられているんだ。

松山城と今治城の位置関係(概略図)。

位置関係を分かりやすく示した概略図です。地形・方角・距離・縮尺を正確に再現したものではありません。

では、二つの城をもう少し詳しく見てみよう。

なぜ松山城は山の上に築かれたの?

山だけでなく、周りの土地も大切だった

松山城を築く前、加藤嘉明は海沿いにある松前城(まさきじょう)を拠点としていたんだ。

でも、松前城は海からの風や波の影響を受けやすく、広くなった領地を治めるには、新しい城が必要になったとされている。

そこで選ばれたのが、現在の松山市中心部にある勝山。

勝山は、周りを見渡せる独立した山で、山の高さを利用すれば、敵が攻めてきたときにも守りやすい。

でも、勝山が選ばれた理由はそれだけではないと考えられているんだ。

実は、山の周りに町をつくるための広い土地があったことも重要だった。

昔の城は、武士や商人などが暮らす城下町と一緒に整備されることが多かったことから、

松山城も城だけでなく町全体をつくる必要があったんだね。

城下町をつくるために、川の流れまで変えた!

ところが、勝山の周りには問題があった。

当時、この辺りを流れていた湯山川(現在の石手川)は、大雨で氾濫しやすい川だったんだ。

これでは、安心して町をつくることが難しい。

そこで、加藤嘉明の家臣である足立重信(あだちしげのぶ)らが、川の流れを変える工事を進めた。

山の近くを流れていた川を別の方向へ流し、堤防も整えたとされているんだ。

こうして、城下町を整えるための土地が確保されていったんだね。

城をつくるだけでなく、川の流れまで変えて町をつくった。

石手川の流れを変えて城下町を整えたイメージ。

流路変更と町づくりの関係を説明する模式図です。当時の川筋・工事範囲・時期を正確に復元したものではありません。

これは少し意外だったね。

松山城に行ったら、山の斜面にも注目!

松山城の特徴は、山頂にある天守だけではない。

山の斜面には「登り石垣(のぼりいしがき)」という珍しい石垣もあるんだ。

これは、山の下から上へと続くように築かれた石垣のこと。

敵が山の斜面から入り込むのを防ぐためにつくられたんだ。

この造りには、加藤嘉明が朝鮮出兵で経験した城づくりが影響したと考えられている。

現在も一部が残っていて、県庁裏登城道という道から見ることができるよ。

登り石垣そのものを登ることはできないけど、松山城を訪れるなら注目してみたい場所の一つだね。

天守だけでなく山の斜面にも目を向けると、松山城が山全体を利用して守られていたことが分かってくるんだ。

では、今治城はどうだろう?

なぜ今治城は海の近くに築かれたの?

藤堂高虎も、領地が増えたことで新しい城を必要としていた。

それまでの国府城(こくぶじょう)は山にある城だったけど、新しい拠点としては十分ではなかったと考えられているんだ。

そこで高虎が選んだのは、山ではなく海沿いの平地だった。

昔は海も大切な交通路だった

今では車や電車で移動することが多いけど、昔は船も人や荷物を運ぶ大切な交通手段だった。

今治の近くには、島々の間を船が行き来する瀬戸内海が広がっている。

その中でも来島海峡(くるしまかいきょう)は、昔から瀬戸内海を行き来する船にとって重要な通り道で、潮の流れが速いことでも知られているんだ。

海を利用するには便利な場所が必要だけど、潮の流れが激しすぎると船の出入りが難しくなる。

今治城の場所は、周辺の海上交通を利用しやすく、来島海峡の激しい潮流の影響も直接受けにくかったと考えられているんだ。

つまり、今治城は海を使うことも考えて築かれた城だったというわけだね。

ただし、藤堂高虎本人が何を一番重視してこの場所を選んだのかは、はっきり確認できていないんだ。

今治城と海上交通の位置関係(概略図)。

海との関係を説明する概略図です。島の配置・航路・距離を正確に示す地図ではなく、矢印は当時の具体的な航路を特定したものではありません。

今治城の堀には、なんと海水が使われている!

今治城で特に注目したいのが、城を囲む大きな堀。

実は、この堀には海水が入っているんだ。

昔の今治城は、三重の堀で囲まれ、そこに海水を引き込んでいたんだ。

広い堀があれば、敵が簡単に城へ近づくことはできない。

でも、今治城の特徴はそれだけではない。

なんと、城の中には船が出入りできる港のような場所まであったんだ。

「船入(ふないり)」と呼ばれる施設で、城の中まで船を入れられる仕組みになっていた。

海が近いという特徴を、城の守りだけでなく、船の利用にも活かしていたんだね。

今治城の堀と船入のしくみ(模式図)。

堀と船入の仕組みを分かりやすく示した模式図です。実際の縄張り、堀の形・幅、船入の位置や接続を正確に復元したものではありません。

現在も今治城には海水をたたえた広い堀が残っている。

今治城の広い堀と石垣。

訪れたときには、ぜひ堀の水にも目を向けてみてほしい。

今見えている大きな堀が、かつて海とつながっていた城の姿を考える手がかりになるんだ。

現在の天守は、当時の建物じゃない⁉

ちなみに、現在の今治城の天守は1980年に建てられたもの。

松山城の天守も築城当時のものではなく、1852年に再建工事が完成し、1854年に落成式が行われたものなんだ。

でも、城の魅力は天守だけじゃない。

今の天守を眺めながら昔の姿を想像するのも面白いし、松山城の登り石垣や今治城の海水を使った堀に目を向けると、当時の城づくりの工夫も見えてくる。

天守だけでなく、周りにも目を向けてみる。そんな楽しみ方もあるんだね。

まとめ|城の場所を知ると、旅の楽しみ方も変わってくる

松山城と今治城。

どちらも同じ時期に築かれた城なのに、選ばれた場所は大きく違っていた。

松山城は、山の高さと周りの土地を活かし、川の流れまで変えて城下町を整えた城。

今治城は、海に近い場所を活かし、海水の堀や船の出入りできる施設を備えた城。

それぞれの土地の特徴が、城の姿にも表れているんだね。

次に松山城を訪れるなら、天守だけでなく、山の斜面に残る登り石垣にも注目してみたいね。

今治城なら、大きな堀を眺めながら、昔は海水を利用し、船が城の中まで出入りしていたことを思い浮かべてみるのもいいかもしれない。

城の形だけでなく、その場所にある理由を少し知っているだけで、いつもの城巡りも違って見えてくるかもしれないね。

参考資料・出典

この記事は、以下の資料を参考に作成しています。

1. 松山市「松山城跡」

2. 『愛媛県史 近世 上』「加藤嘉明時代」

3. 松山市「登り石垣とは」

4. 今治市「今治城について」

5. 『愛媛県史 近世 上』「藤堂高虎時代」

6. 『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)』「今治城下町の形成と発展」

7. 松山市『史跡松山城跡保存活用計画』第2章(年表・冊子40ページ)

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